宮本輝の30年くらいまえの短編集の表題作、命の器。
しかし今日は、氏の小説やエッセイの話ではない。
私的に頭にこびりつづける、
私のイメージする、
命の器の話しをします。
そんな大切な器が、この世にあったなら、
毎日せっせと綺麗に磨かないといけないもんね。
命の器。
この力強い、なくてはならないもの、
そんな勝手な認識とか不変な記号とか水とか空気とか、
そんなものの類以上に感覚として残る邂逅と器。
そんな器。
命の器。
あると思います。
私は、この、
命の器という、器を、
かれこれ30年くらい、さがしている。
さがせたからと言って、どうにかなるというモノでもないのだけれど、
見つかったとして、
取り替えっこできないっていう意味で、思考は混乱するし、
言葉の意味を超えた、
具体的な、その器をさがしている。
私の命の器は、
どれくらいの大きさで、
やはり自身の輪郭にとどまる大きさなのかなとか、
実は、東京ドームぐらいあったり、
地球より大きいんじゃないのかなとか、
いやいや、米粒ぐらいの小ささなのかとか、
形はどんなで、
ユニークなかっこをしてるのか、
色は一色なのか、それとも透明なのか、
そもそも、機能的で何でも容れることができるのかなとか、
いっぱい乗せられる代物なのかとか、
一枚なのかな?と欲張ってみたり、
私は、さがしている。
それは、
私の解釈で、イコール生きた証が、すっぽりと納められる器だからだ。
私は生きてるから、この命を完全燃焼したい。
ここまでだよって、ラインを引かれたくもない。
あなたの命の器では、これとこれは諦めて欲しいと言われたくもない。
仮にそんな器だったら、そこからジャンプしたい。
なので、
私が思う命の器は、もっと根本的な、
がっちりと納まるモノ、無理もしないし余りもしない。
私自身の身の丈にあった器であると思う。
そう、私自身と一緒。
その人の、いかんともしがたい、根っこにあるもの、本質的なものだと思う。
個々の命の器は、本人の努力では変えられないモノ。
大きさとか色とかは変えられない。
そんな器だと思う。
だから、
見つけることができたら、本当にすばらしい。
そのことが、人生の旅の重点であり、達成しないといけないことであるかもしれないからだ。
そんな器が、
私自身であると考えてみる。
であるなら、
きちんと自分みつけができるには、未熟すぎる自分がいることに気付く。
それは、
もっと真剣に力強く生きるということ。
もっと汗をかけ、ということ。
人はみな、善行も悪行も含め、その人生の大半を普通に過ごす。
残念なから、時代格差と生まれた場所による地域格差はあるけれども、
自身が思う波瀾万丈なんて、たかが小さな点に過ぎない。
ただ万人が、終着点は大事だと、大切だと思う。
できれば幸福なところで、平和で終わりたい。
さらには、人の一生の幅とか奥行きを、他者と比較したりしてみたところで、
なんら自身に変化が起こることもない。
普通であり、素晴らしい人生。
生まれたとき、
命の器も決まっているならば、
一生をかけて、その器が何たるものなのか、探さないといけない。
と、
私は、考えてみた。
そのことは、
自身をみがくこと、
みがき続けることだと思う。
人はみな、命の器をみがき続ける。
自分自身が何者で、どこへ行くのか!
夢をみる。
社会のことを考える。
身の丈の幸せを望み、平和を願う。
その希望の瞳に、
器は映る。